蝶々10
※後日アップ予定です
※後日アップ予定です
「つまり、新一は人間だったんだ」
「…」
「死にきれない人の魂を媒体にして蝶たちが集まったのでしょう」横合いから聞こえてきた凛とした声に、老人と快斗は振り返りました。
牢の中で背筋を伸ばし、鎖に繋がれていても正義感にあふれていました。
「ご老人。今の話で僕にも少しですが真実が見えてきました。
あなたは彼が人間であったことも、妖であることも知っていた。普通なら知るはずもないことです。加えて、先程の発言。
…あなたが彼を殺したんですね?」
「違う!」
老人は大声を張り上げました。
「儂は…儂はただ…」
そのとき誰も気がつきませんでしたが、牢の奥で今までぴくりとも動かなかった新一が目を開きました。
*****
深い森に最も近い村で、後に老人となる少年が住んでいました。少年の家は代々村の有力者として名を馳せており、少年も大きくなれば家を継いで村を代表する立場となるべく教育されていました。実際、少年には生まれながらに人をまとめる力がありました。しかし子どもの仲間たちは勉強をしたり本ばかり読んでなかなか遊びに加わらない少年をつまらなく思っていました。
だから少年はたいていは一人でした。それは彼が大病を患い、寝たり起きたりを繰り返してますます家にいる時間が長くなり、さらにその傾向は強くなりました。
少年が七つになった頃、近所に越してきた一家の子どもは整った顔立ちで運動が得意、性格も明るく素直であっという間に辺りの人気者となりました。彼の名は新一といいました。
しかし少年はその輪にすら入らず、ただ書庫にこもって埃の積もった古い書物を読んでいました。その頃にはもう寝込むこともなくなっていたのですが、本を読んでいれば親も口を出してくることはなく、有益で楽しいように感じていたからです。
多くの友達に囲まれて遊ぶことに憧れていましたが、同時にあきらめてもいました。どこか満ち足りない気持ちが心のどこかにありました。本を読んでいる間はその気持ちを忘れていることができたのです。
『その本、面白いよな。俺も今読んでるんだ』
だから新しい人気者がある日親しげに話しかけてきたときには驚きましたし戸惑いも感じました。
そのとき読んでいたのが普通の子どもならまず読まないような難しい言葉を使った推理物語だったこともその一因でした。
調子を合わせた話題作りだと思い無視しようとしたのですが、少年は次の瞬間更に驚かされました。
『俺は五章で犯人が分かった。お前は?』
『…俺も五章』
『なら同時に言おうぜ。せーの…』
これがきっかけでした。その日以来、少年は新一と話すことを楽しみにするようになりました。彼に誘われて競争に参加したり、湖に泳ぎに行ったり、勉強を教えあったりと本当に仲の良い友人となりました。新一に出会い、少年は今まで自分が寂しかったこと、それを知らずにいたことを知ったのでした。
少年にとってそれからの数年間は本当に楽しい時間でした。本当に気が合い、話ができる存在がいなくて今までどうやってこれたのだろうと不思議に思いもました。これまで読書に注いできた情熱を様々な方向へ向けてみようとしてくれたのも新一でした。
彼らの新しい発見や驚きを常に一緒に受け止め、飽くことなく次を求める新一の好奇心は誰よりも強いものでした。そして時にはそんな新一の世話を焼くことになる少年も、新一と一緒ならば苦とも思わなかったのです。
少年は新一が好きでした。
しかしそれは友情を越えるものではありませんでした。ただ、新一の中での一番であれば良かったのです。
新一もそう思っていてくれているものと、信じてもいました。
二人が十六歳になった、ある夏の近い暑い日でした。
二人は深い森に入り込み、自分の庭のように歩き回っていました。
慣れた足取りで先を行く新一に少年は少し遅れてついていきます。早い蝉の声も森深くに入るに従い次第に遠くなりました。鳥の声と、風にそよぐ木々のざわめきと、自分たちの足音が響き、それ以外の音はこの世から消滅したように静かでした。高い木々に阻まれて、太陽の光も木の葉越しに漏れているだけです。
やがてひんやりとした空気があたりに漂い始め、滝の音が川が近いことを知らせました。
「どこまで行くつもりだよ、新一」
ようやく口を開いた少年は不機嫌な様子を隠そうともしないで前を行く背中に問いかけました。
「まあまあ。久しぶりに川に行きたかったからさ」
新一は川べりの石ににさっさと腰を下ろすと靴を脱いで足を水に浸し始めました。熱く火照った体にとても気持ちが良さそうです。
「何だよそれ…なんか深刻そうな顔して『話があるんだ』とか言ってたくせに」
「だから、そんな話はここがぴったりじゃねーか。広いし。静かだし」
「ってそれだけか!俺ここに来るまでにすっかり疲れたぞー…」
「運動不足解消に協力したんだぜ」
「嘘こけ」
「ばれたか」
そう言って笑った新一がとても楽しそうだったので、彼もやはり笑って隣に座りました。そうして静かな川の流れに身を浸し、二人並んで座っている、この瞬間が彼は何より好きでした。
横に座っている新一もきっと同じ事を感じていることと彼は感じました。
やがてだいぶ沈黙が続いた頃、新一がぽつりと呟きました。
「俺さ、好きなやつ、できたんだ」
少年は目の前が真っ暗になったような衝撃を受けました。
新一はつっかえながらもその少女のことを話続けました。
髪が長く、気が強くて、それでも涙もろいところのある彼女のことを、照れくさそうに親友に教えてくれました。
少年は黙って聞いていました。その間ずっと、新一が嬉しそうに話す話題が他人のことという悲しみを感じていました。
しかしそれを一番に話してくれることが、今の少年の位置なのです。それだけが少年の慰めでした。
心中は未だに最初の衝撃から立ち直ってはいませんが、表面上は取り繕えているのではないでしょうか。
「…っと、俺ばっかり話しちまったな。次、お前言えよ」
「…いないって」
「え~?…ったく鈍いなお前は。あの子はどうなんだよ。髪を一つに束ねてる、元気のいい子」
「あいつは…子分みたいなもんだし」
「素直じゃねーの」
笑ってからかった新一でしたが、次の瞬間少年にとって信じられないことを言いました。
「あの子、お前と同じとこの出身なんだろ?やっぱ昔からの知り合いとか?」
少年はすぐには声が出ませんでした。
何故…何故新一が「知っている」のでしょう?
少年と少年の家族以外は知るはずのないことなのです。
それは今まで必死に隠してきたことなのですから。
そのために、親も友人も、自分の名前すら捨ててきたのですから。
しかし新一は事も無げに言いました。
「知ってたぜ、ずっと前から。いつ話してくれるかと思ってたんだ」
そう言うと新一は立ち上がり、水をわけてざぶざぶと川の真ん中に向かって歩き出しました。呆然としていた少年は、次にやっと否定の言葉を口に乗せました。
「な…何を言うてるんや…」
「ほらそれ」
え、と少年は止まります。
「お前、焦ると言葉が変わるんだよ。この辺じゃ『何を言ってるんだ』って言う。その訛りは西の方だろ」
「…」
少年は黙り込みました。そんな小さなことでぼろが出ていたことに今まで気がついていなかったし、そしてその小さな癖を見逃さない新一の観察眼の鋭さに舌を巻いていました。
そう、少年は本当は西の国で生まれた身でした。厳しくも優しい父と母をもち、外で体を動かして遊ぶことが好きな男の子でした。
それが本家の同い年の男子が四つにして急死したという知らせが来たとき、彼の運命は変わったのです。
よく似た顔つきながら全く逆の性質と聞こえの高い従兄弟にすりかえる、などということを誰が考えつくでしょう?
本家の血筋が絶えたとなれば、分家の中の最有力が台頭してくるでしょう。そりの合わないその分家に乗っ取られるくらいなら、遠くとも本家にとり都合の良い血を。
細かい事情は後になってから知りました。
両親の抵抗も最後には破られ、悲嘆にくれた母の涙と、辛そうに頭を撫でた父の手と。
そのときのことは幼い少年には二人の姿と、ただ漠然とした不安としか覚えていません。
すり替えは速やかに行われました。
少年はこれまでの名前と生活と両親を失い、たった独りで広大な屋敷に閉じこめられました。
本が好きだったという死んだ従兄弟に合わせて本を与えられ、外で遊ぶことと西の訛りのある言葉を禁じられました。
少年にとって堪えようもない苦痛の日々でした。帰りたいと泣く度にしかられ、放っておかれるのに束縛はきつく、少年はすっかりもとの陽気な性格を失っていきました。
だから新一がやってきてからの生活は少年が被っていた殻のようなものを時間をかけて剥がしていくようなものでした。
少年は抱えた悩みを一つずつ捨て去り、ついに本来の性質に近づきつつありました。
新一という存在によって少年の人生はもう一度変わったのです。
そんな少年は何より恐ろしかったのです。
新一に全てを見抜かれてしまうことが。
だからこそ、少年は新一の言葉に過剰に反応しました。
知られていないと思っていた事実を実は新一が長い間知っていて黙っていたことに動揺し、混乱していました。
「それにしてもさ」
そんな少年の心情を知らぬまま、川の中、石の上に立って後ろを向いたまま新一はつぶやきました。
「お前の親父さんも、酷いことしたよな」
少年ははっと顔を上げました。彼にとっては今がどうであれ、親父という言葉は生まれの父を指していました。
その父を…なんと?
「お前を黙ってそんな地位に座らせてさ」
「それってお前のこと、ちゃんと考えてないと思うぜ…」
何を。
何を言うんだ。
あの優しかった父を…大きな手を、知らないくせに!!
「親父のことを悪く言うな!」
その瞬間、少年は立ち上がり、川の中に立つ新一につかみかかろうとしました。
気配に気がついた新一が振り返りざまとっさに身をひねったとき体のバランスが崩れ、驚いた顔のまま新一は水しぶきをあげて川に倒れ込みます。
少年の方は水に足を取られてたたらを踏み、二人の間には3歩半の距離がありました。
新一が落ちた箇所は思っていたよりも川の深い場所のようでした。新一の体が水流に飲まれ、流されそうになってもがいているのを少年は呆けたように数秒、眺めていました。
白い手が水をかき分け、
空中に助けを求めるように伸ばされるのを、
ただただ眺めていました。
少年はその光景をとても美しいと感じたのです。
「……!」
新一が何かを叫んだことで我に返り、その手をつかもうと足を踏み出した時には手はすでに流れにのって遠くなりかけていました。
「工藤!!」
水をかき分けて少年は自らも速い流れに飛び込み、必死で前を行く新一をつかもうとしました。
新一もそんな少年に向かい、手を伸ばします。
「…っ!」
あともう少し、二人の間が短ければ彼らは手を取り合うことができたはずでした。
しかし、二人はひときわ速い流れに飲み込まれました。
お互いの手を掴めないまま、上も下もわからないような水の力に翻弄され、二人は必死にもがきました。
大自然の力は圧倒的でした。
その中ではちっぽけな人間の力というものは巨大な壁の前の鼠のように無力な存在でした。
少年が助かったのは単純に運が良かったからです。
水に飲まれて意識を失いそうになる直前、彼は指が何かに触れるのを感じました。反射的に彼はそれをつかんで流れに逆らいました。それがきっかけで顔が水面に出たので呼吸が楽になります。
掴んだものは川に張り出した一本の枝でした。
息を整えてから少年は両手で枝を掴み直し、慎重に体を移動させていきました。
ついに川岸にたどり着き、岩の上に身を横たえた少年は川の先を見やって息を飲みました。
轟々と音を立てた滝が流れを早めるように水を引き寄せていたからです。
あともう少し遅ければ、少年は引きずり込まれて助からなかったことでしょう。
少年はしかしそのことに感謝する余裕などありませんでした。
新一、新一はどうなったのか?
「…」
「死にきれない人の魂を媒体にして蝶たちが集まったのでしょう」横合いから聞こえてきた凛とした声に、老人と快斗は振り返りました。
牢の中で背筋を伸ばし、鎖に繋がれていても正義感にあふれていました。
「ご老人。今の話で僕にも少しですが真実が見えてきました。
あなたは彼が人間であったことも、妖であることも知っていた。普通なら知るはずもないことです。加えて、先程の発言。
…あなたが彼を殺したんですね?」
「違う!」
老人は大声を張り上げました。
「儂は…儂はただ…」
そのとき誰も気がつきませんでしたが、牢の奥で今までぴくりとも動かなかった新一が目を開きました。
*****
深い森に最も近い村で、後に老人となる少年が住んでいました。少年の家は代々村の有力者として名を馳せており、少年も大きくなれば家を継いで村を代表する立場となるべく教育されていました。実際、少年には生まれながらに人をまとめる力がありました。しかし子どもの仲間たちは勉強をしたり本ばかり読んでなかなか遊びに加わらない少年をつまらなく思っていました。
だから少年はたいていは一人でした。それは彼が大病を患い、寝たり起きたりを繰り返してますます家にいる時間が長くなり、さらにその傾向は強くなりました。
少年が七つになった頃、近所に越してきた一家の子どもは整った顔立ちで運動が得意、性格も明るく素直であっという間に辺りの人気者となりました。彼の名は新一といいました。
しかし少年はその輪にすら入らず、ただ書庫にこもって埃の積もった古い書物を読んでいました。その頃にはもう寝込むこともなくなっていたのですが、本を読んでいれば親も口を出してくることはなく、有益で楽しいように感じていたからです。
多くの友達に囲まれて遊ぶことに憧れていましたが、同時にあきらめてもいました。どこか満ち足りない気持ちが心のどこかにありました。本を読んでいる間はその気持ちを忘れていることができたのです。
『その本、面白いよな。俺も今読んでるんだ』
だから新しい人気者がある日親しげに話しかけてきたときには驚きましたし戸惑いも感じました。
そのとき読んでいたのが普通の子どもならまず読まないような難しい言葉を使った推理物語だったこともその一因でした。
調子を合わせた話題作りだと思い無視しようとしたのですが、少年は次の瞬間更に驚かされました。
『俺は五章で犯人が分かった。お前は?』
『…俺も五章』
『なら同時に言おうぜ。せーの…』
これがきっかけでした。その日以来、少年は新一と話すことを楽しみにするようになりました。彼に誘われて競争に参加したり、湖に泳ぎに行ったり、勉強を教えあったりと本当に仲の良い友人となりました。新一に出会い、少年は今まで自分が寂しかったこと、それを知らずにいたことを知ったのでした。
少年にとってそれからの数年間は本当に楽しい時間でした。本当に気が合い、話ができる存在がいなくて今までどうやってこれたのだろうと不思議に思いもました。これまで読書に注いできた情熱を様々な方向へ向けてみようとしてくれたのも新一でした。
彼らの新しい発見や驚きを常に一緒に受け止め、飽くことなく次を求める新一の好奇心は誰よりも強いものでした。そして時にはそんな新一の世話を焼くことになる少年も、新一と一緒ならば苦とも思わなかったのです。
少年は新一が好きでした。
しかしそれは友情を越えるものではありませんでした。ただ、新一の中での一番であれば良かったのです。
新一もそう思っていてくれているものと、信じてもいました。
二人が十六歳になった、ある夏の近い暑い日でした。
二人は深い森に入り込み、自分の庭のように歩き回っていました。
慣れた足取りで先を行く新一に少年は少し遅れてついていきます。早い蝉の声も森深くに入るに従い次第に遠くなりました。鳥の声と、風にそよぐ木々のざわめきと、自分たちの足音が響き、それ以外の音はこの世から消滅したように静かでした。高い木々に阻まれて、太陽の光も木の葉越しに漏れているだけです。
やがてひんやりとした空気があたりに漂い始め、滝の音が川が近いことを知らせました。
「どこまで行くつもりだよ、新一」
ようやく口を開いた少年は不機嫌な様子を隠そうともしないで前を行く背中に問いかけました。
「まあまあ。久しぶりに川に行きたかったからさ」
新一は川べりの石ににさっさと腰を下ろすと靴を脱いで足を水に浸し始めました。熱く火照った体にとても気持ちが良さそうです。
「何だよそれ…なんか深刻そうな顔して『話があるんだ』とか言ってたくせに」
「だから、そんな話はここがぴったりじゃねーか。広いし。静かだし」
「ってそれだけか!俺ここに来るまでにすっかり疲れたぞー…」
「運動不足解消に協力したんだぜ」
「嘘こけ」
「ばれたか」
そう言って笑った新一がとても楽しそうだったので、彼もやはり笑って隣に座りました。そうして静かな川の流れに身を浸し、二人並んで座っている、この瞬間が彼は何より好きでした。
横に座っている新一もきっと同じ事を感じていることと彼は感じました。
やがてだいぶ沈黙が続いた頃、新一がぽつりと呟きました。
「俺さ、好きなやつ、できたんだ」
少年は目の前が真っ暗になったような衝撃を受けました。
新一はつっかえながらもその少女のことを話続けました。
髪が長く、気が強くて、それでも涙もろいところのある彼女のことを、照れくさそうに親友に教えてくれました。
少年は黙って聞いていました。その間ずっと、新一が嬉しそうに話す話題が他人のことという悲しみを感じていました。
しかしそれを一番に話してくれることが、今の少年の位置なのです。それだけが少年の慰めでした。
心中は未だに最初の衝撃から立ち直ってはいませんが、表面上は取り繕えているのではないでしょうか。
「…っと、俺ばっかり話しちまったな。次、お前言えよ」
「…いないって」
「え~?…ったく鈍いなお前は。あの子はどうなんだよ。髪を一つに束ねてる、元気のいい子」
「あいつは…子分みたいなもんだし」
「素直じゃねーの」
笑ってからかった新一でしたが、次の瞬間少年にとって信じられないことを言いました。
「あの子、お前と同じとこの出身なんだろ?やっぱ昔からの知り合いとか?」
少年はすぐには声が出ませんでした。
何故…何故新一が「知っている」のでしょう?
少年と少年の家族以外は知るはずのないことなのです。
それは今まで必死に隠してきたことなのですから。
そのために、親も友人も、自分の名前すら捨ててきたのですから。
しかし新一は事も無げに言いました。
「知ってたぜ、ずっと前から。いつ話してくれるかと思ってたんだ」
そう言うと新一は立ち上がり、水をわけてざぶざぶと川の真ん中に向かって歩き出しました。呆然としていた少年は、次にやっと否定の言葉を口に乗せました。
「な…何を言うてるんや…」
「ほらそれ」
え、と少年は止まります。
「お前、焦ると言葉が変わるんだよ。この辺じゃ『何を言ってるんだ』って言う。その訛りは西の方だろ」
「…」
少年は黙り込みました。そんな小さなことでぼろが出ていたことに今まで気がついていなかったし、そしてその小さな癖を見逃さない新一の観察眼の鋭さに舌を巻いていました。
そう、少年は本当は西の国で生まれた身でした。厳しくも優しい父と母をもち、外で体を動かして遊ぶことが好きな男の子でした。
それが本家の同い年の男子が四つにして急死したという知らせが来たとき、彼の運命は変わったのです。
よく似た顔つきながら全く逆の性質と聞こえの高い従兄弟にすりかえる、などということを誰が考えつくでしょう?
本家の血筋が絶えたとなれば、分家の中の最有力が台頭してくるでしょう。そりの合わないその分家に乗っ取られるくらいなら、遠くとも本家にとり都合の良い血を。
細かい事情は後になってから知りました。
両親の抵抗も最後には破られ、悲嘆にくれた母の涙と、辛そうに頭を撫でた父の手と。
そのときのことは幼い少年には二人の姿と、ただ漠然とした不安としか覚えていません。
すり替えは速やかに行われました。
少年はこれまでの名前と生活と両親を失い、たった独りで広大な屋敷に閉じこめられました。
本が好きだったという死んだ従兄弟に合わせて本を与えられ、外で遊ぶことと西の訛りのある言葉を禁じられました。
少年にとって堪えようもない苦痛の日々でした。帰りたいと泣く度にしかられ、放っておかれるのに束縛はきつく、少年はすっかりもとの陽気な性格を失っていきました。
だから新一がやってきてからの生活は少年が被っていた殻のようなものを時間をかけて剥がしていくようなものでした。
少年は抱えた悩みを一つずつ捨て去り、ついに本来の性質に近づきつつありました。
新一という存在によって少年の人生はもう一度変わったのです。
そんな少年は何より恐ろしかったのです。
新一に全てを見抜かれてしまうことが。
だからこそ、少年は新一の言葉に過剰に反応しました。
知られていないと思っていた事実を実は新一が長い間知っていて黙っていたことに動揺し、混乱していました。
「それにしてもさ」
そんな少年の心情を知らぬまま、川の中、石の上に立って後ろを向いたまま新一はつぶやきました。
「お前の親父さんも、酷いことしたよな」
少年ははっと顔を上げました。彼にとっては今がどうであれ、親父という言葉は生まれの父を指していました。
その父を…なんと?
「お前を黙ってそんな地位に座らせてさ」
「それってお前のこと、ちゃんと考えてないと思うぜ…」
何を。
何を言うんだ。
あの優しかった父を…大きな手を、知らないくせに!!
「親父のことを悪く言うな!」
その瞬間、少年は立ち上がり、川の中に立つ新一につかみかかろうとしました。
気配に気がついた新一が振り返りざまとっさに身をひねったとき体のバランスが崩れ、驚いた顔のまま新一は水しぶきをあげて川に倒れ込みます。
少年の方は水に足を取られてたたらを踏み、二人の間には3歩半の距離がありました。
新一が落ちた箇所は思っていたよりも川の深い場所のようでした。新一の体が水流に飲まれ、流されそうになってもがいているのを少年は呆けたように数秒、眺めていました。
白い手が水をかき分け、
空中に助けを求めるように伸ばされるのを、
ただただ眺めていました。
少年はその光景をとても美しいと感じたのです。
「……!」
新一が何かを叫んだことで我に返り、その手をつかもうと足を踏み出した時には手はすでに流れにのって遠くなりかけていました。
「工藤!!」
水をかき分けて少年は自らも速い流れに飛び込み、必死で前を行く新一をつかもうとしました。
新一もそんな少年に向かい、手を伸ばします。
「…っ!」
あともう少し、二人の間が短ければ彼らは手を取り合うことができたはずでした。
しかし、二人はひときわ速い流れに飲み込まれました。
お互いの手を掴めないまま、上も下もわからないような水の力に翻弄され、二人は必死にもがきました。
大自然の力は圧倒的でした。
その中ではちっぽけな人間の力というものは巨大な壁の前の鼠のように無力な存在でした。
少年が助かったのは単純に運が良かったからです。
水に飲まれて意識を失いそうになる直前、彼は指が何かに触れるのを感じました。反射的に彼はそれをつかんで流れに逆らいました。それがきっかけで顔が水面に出たので呼吸が楽になります。
掴んだものは川に張り出した一本の枝でした。
息を整えてから少年は両手で枝を掴み直し、慎重に体を移動させていきました。
ついに川岸にたどり着き、岩の上に身を横たえた少年は川の先を見やって息を飲みました。
轟々と音を立てた滝が流れを早めるように水を引き寄せていたからです。
あともう少し遅ければ、少年は引きずり込まれて助からなかったことでしょう。
少年はしかしそのことに感謝する余裕などありませんでした。
新一、新一はどうなったのか?
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